金光大神様のことば

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金光教祖様

金光教祖様は、人の世の様々な苦難に出会われました。その苦難に対して神様は、神としては出来得る限りのことはしてきた、その中での難儀なのだと言われます。日頃から神仏を敬い、実意で丁寧で正直な教祖様を見込まれて、神様がその切ない胸の内を吐露されます。世の中の苦しんでいる氏子を見るのがつらいこと、天地の道理というものがあるということ、神様の言い分というのか、様々な難儀の原因を教祖様に話されます。その神様の思し召しを素直に受けられたのが金光教祖様であり、教祖様が天地金乃神様のおかげをはじめて受けられた人間であり、おかげの受け始めと言われております。それは、人間(自分)の側からの目線を神様の目線で捉え直すということです。 金光教(こんこうきょう)の教祖金光大神(こんこうだいじん)さまは、江戸時代の終わりごろ、文化11(1814)年8月16日(新暦9月29日)、備中国占見村(びっちゅうのくに うらみむら/現岡山県浅口市金光町)の農家、香取十平(かんどりじゅうへい)、しもの2男として生まれました。源七(げんしち)と名づけられ、実直で信仰心の厚い父と、慈愛に満ちた母のもとで、大切に育てられました。  文政8(1825)年、12歳になった金光さまは、川をへだてた隣村の大谷村(おおたにむら)に住む川手粂治郎(かわてくめじろう)、いわの養子となりました。名前を源七(げんしち)から文治郎(ぶんじろう)と改め、周りからは文治(ぶんじ)と呼ばれるようになりました。  12歳で養子に行かれ、義理の両親の愛情を受け、立派に成長されて行かれます。しかし、23歳の時に、可愛い義理の弟が亡くなり、後を追うように義理の父が亡くなります。それでも教祖様は気丈にも前を向いて必死に働かれます。結婚をなされ、稲作の他にも手間は掛かるが収入のよい綿作にも取り組まれ、家の繁盛のため一生懸命立ち働かれます。田畑を購入されたり、家を買い替えたりますます繁盛されていきます。「信心文さ」というあだ名のとおり、誰よりも実意に丁寧に神仏を敬い、子供も次々に授かりおかげを頂かれます。そんな幸せな中に、可愛い盛りのわが子を次々に3人も亡くされます。さらに、農家にとっては家族同様の飼牛が2年続けて同じ月日に亡くなり、振り返ってみれば15年の間に七墓を築かされます。わが子も飼牛も「医師にかけ治療いたし、神々願い、祈念祈念におろそかもなし。神仏願いてもかなわず、いたしかたなし。残念至極と始終思い暮らし。」と後に述懐されていますが、私たちには到底計りしれない、不安や苦しみの中におられたのだと思うと、至らぬながらに胸が熱くなり、涙がこみ上げて参ります。そして42歳の時についに教祖様ご自身が九死一生と言われる大患に罹られます。この時に神様と出会われ、病気の原因(建築、家移りについて神に無礼)や熱病にかかるはずが「のどけ」にまつり変えられていることを神様から告げられ、神様に助けられます。 なぜ、教祖様は助けられたのか?金光教教典には「心徳を持って神が助けてやる」と書かれています。「心徳(しんとく)」とは「こころの徳」だと思いますし、「神徳(しんとく)」ということでもあると思います。徳を積むといいますが、日々の生活の中で、神様や人との関わり合いの中で、自然に徳を積んでいくということ、この徳を積むということは信心の大切な中身の一つだと思います。教祖様は、誰よりも神仏を敬い、自分のことだけを考えるのではなくて、むしろ人のことを思いやり、人が喜ぶことであれば骨身を惜しまずに行われたとあります。村の小道などが壊れていると、人知れず直され、自分の田んぼの水かげんを見に行くと、ついでに周りの人の田の水かげんにも気を配られました。米を売るときにも、買って食べる人が喜んでくれればと、家にある質のよい米を選んで提供されました。人のためを思ってすることが、いっこうに苦にならず、かえってそれを喜ばれたのだそうです。神仏を大切に、人を思う心と行動が、神様の言われる「心徳(しんとく)」になったのだと思います。教祖様は、何か問題が起きても他人を見るのではなく、いつも自分自身を問題になされます。神様や人を責めることなく、これまでのことや自分自身を顧みられます。そして、「思い分け」(思いを分ける:何でもよい方によい方に受け取ること)をなされ、事柄の中にあるよいところ見つけ出され、神様のおかげとして、神様に御礼を申し上げられます。このような教祖様の「み心」を神様が放ってはおけない、何とかしてやりたい、神様がそう思われたのだと思います。 私ですと、人のためにするのがよいと分かってはいるけれども、いざという時に実行できるのか?自分というもの、「わがこころ」が邪魔をしてきます。即ち、自分自身との闘いになってまいります。人は見ていなくても、人は心の中が見えなくても、神様はすべてご承知、見抜き見通しです。有り難くもあり、逆に恐ろしくもあります。人を思う心、その行動が「神徳」になるのだと思います。「陰で人を助けよ」というみ教えにありますが、人知れずに人のためになることが、表だってというのか、人目につく、よいことよりも神様が喜ばれるように思います。 そして、安政6年10月(1859年)に教祖様は神様からお頼みを受けられます。それが立教神伝といわれるもので、取次ぎということを神様に頼まれます。取次(とりつぎ)とは、「人の願いを神様に、神様の思いを人に伝えて」、神様と人とが共に助かっていく世界を顕現(けんげん)するための働きです。金光教の信心は、神様とさせていただくこと、神様とのつながり、神様との関わり、神様の目線(視点)を大事に、一つ一つの問題を解決に向けて、神様と共に取り組み、神様からのおかげを頂いていくことです。